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徐匯区概要

  • 医療と厚生

     公立病院の改革を推進し、薬品の一括購入を実施し、市六―市八病院グループ、中山―中心病院の二つの緊密な関係をもつ医療連合体を構成したと同時に、区に属する医療機関のサービス能力の向上に力を入れた。。コミュニティ衛生サービスの総合改革を徹底させ、家庭医と住民との「1+1+1」形態の契約を推し進めた。慢性病に対する「長期処方」と「宅配処方」のサービスを提供した。住民の主要な健康指標が全市の平均水準を上回っている。また、2人目の子どもを持つことが認められる政策を全面的に実施した。

  • 人口と就労

    人口と計画生育 2015年末時点の全区の戸籍登録人口が91.97万人で、前年に比べて0.15万人増加した。全区の定住人口が108.91万人で前年に比べて2.06万人減少した。昨年本区で生まれた人の数が6962人で、人口出生率が7.58‰だった。死亡した人の数が7805人で、死亡率が8.49‰、人口自然成長率が-0.91‰だった。就労状況 2015年末時点の全区の登録失業者数が19142人で、予想人数の19800人より少なかった。新設された就職口が42636件だった。各種のトレーニングを受けた人が延べ670773人で、そのうち、政府の補助金を受けた人が31423人で、上級以上の技術トレーニングを受けた人が延べ19679人だった。賃金集団協議制度が適用された人が206814人だった。

  • 教育と文化

     全面的な教育総合改革を実施し、南模教育集団を構成し、上海市で真っ先に学区化教育(やや規模の大きいエリアでの小中学校の連合による教育)を完全化させた。新型優秀学校の建設によって教育内容の充実化を図り、全国「両基(九年制義務教育制度をほぼ普及、青年中年における完全識字率をほぼ実現)」活動先進地区の称号を獲得した。幼稚園・小学校の入園学児童数の急増に対応し、小中一貫制学校1校、小学校2校、幼稚園5園、簡易幼稚園9園を増設した。 国家第一期公共文化サービスシステム模範区を構築し、211の住民委員会の総合文化娯楽室に対し、「三室一館(デジタルビデオ上映室、セルフ式図書室、ネットワーク学習室、文芸展示館)」の改造を完成させた。「30分スポーツ生活圏」の構築を進め、上海市初の国家レベルスポーツ産業模範基地の申請に成功した。

  • 都市管理のイノベーションを模索 中心部環境が大幅に改善

     「清潔、秩序よく、安全」という要求に基づき、都市管理とコミュニティ管理制度のイノベーションを模索し、総合的な整備と取締りを強化し、管理の柔軟性と能率を引き続き向上させた。エコロジー環境が大幅に改善された。区―街道・鎮―団地という三層グリッド化総合管理システムを健全化させ、全国文明城区の申請をきっかけに、営業許可なしの屋台や露店に対する取締りが功を奏した。全市で「五違四必(五つの違法行為の取り締まりと四つの問題点を必ず解決)」の大規模の環境総合整備活動を機に、違法建築に対する取締りに力を入れた。桂江路での高圧電線の集中問題などの一連の安全上の課題を徹底的に解決した。過去五年間で180万平米の違法建築物を取り壊した。空気浄化計画を実施し、龍呉路及び淀浦河沿いの建築用材攪拌所3カ所、建築廃棄物や土砂の運搬埠頭10カ所を閉鎖したことにより、区のほこりの沈下量が33.8%減少した。「河川管理請負制」を実施し、各河川に対して、それぞれの管理計画を作成し、春申港、三友河の二つの重度汚染河川に対する整備活動を完成させた。緑化づくりに力を注ぎ、徐家匯公園の緑化歩道や東湖緑地の改造などの工事を完成させ、過去五年間で46.4ヘクタールの公共緑地と6.2キロの緑化歩道を増設たことにより、全区の緑化率が29%に上昇した。

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  • 産業構造の転換を持続的に推進 総合的な経済力が顕著に増強

     「穏中求進(安定を保ちつつ経済成長を促す)」を基本原則とし、経済成長の新常態に積極的に適応し、産業構造の転換を最も重要な位置につけ、経済成長の質と利益の向上を図った。2016年度、区の総生産高が1495億元、前年に比べて7.8%成長した。区レベルの財政収入が186億元、前年に比べて12.3%増加した。 産業構造が持続的に最適化しつつある。区の総生産高に占める第三次産業の増加量が2011年度の82%から2016年度の89.3%に上昇し、現代サービス産業を中心とする産業構造が固まった。サービス産業における総合的な改革テストを推進し、専門サービス産業、情報サービス産業、技術開発サービス産業、金融サービス産業、文化・観光・イベントの支援サービス産業の五大主要産業の高度成長を維持した。2016年度における現代サービス産業の営業収入が2030億元、年間平均で14.2%増加した。商業・小売業が安定成長を保ち、徐家匯商圏では商業形態とブランド構造の調整が行われ、商業・観光・文化産業における相互促進、インターネットショッピングとリアル店舗の同時発展を促進し、消費者から「上海で最も親しまれるお買物処」に選ばれた。2016年度の商業・小売業の売上高が4473億元、年間平均で9.3%増加した。工業は産業転換が行われており、先進製造業と生産的サービス産業が安定成長を実現した。2016年度、一定規模以上企業による工業総生産高が525億元だった。 経済の利益が引き続き向上している。産業の集中型発展を推進し、情報技術、生命健康、カルチャー・アイディア、イノベーション・ファイナンスを主要産業とする優位性産業構造が次第に形成され、経済成長に対する貢献度が高まってきた。本部経済を積極的に発展させ、ここ5年間で52.7億米ドルの外資系資本を誘致・利用し、メルク・アンド・カンパニー社など、34社の多国籍企業の地域本部の区内誘致に成功し、区内に設立された地域本部が計110社に上り、一年間の税収が1億元以上のオフィスビルが35棟あった。「第12次五カ年計画」に定められた省エネ・排出削減の目標を完全に達成し、IIP当たりのエネルギー消費原単位が累計で20.7%減少した。匯金百貨店をはじめ、15棟の公共建築物が市レベルの省エネ模範建築に選ばれた。 企業経営環境が大幅に改善された。自由貿易試験区における改革措置の導入と適用を進め、「証照分離(元来会社設立前に取得しなければならなかった一連の行政許可を設立後に取得してもよいという制度)」などの商事制度の改革が行われ、税関監督、金融サービス、検査検疫に関する新制度の適用範囲がますます拡大し、事務の能率が大幅に向上した。国資国有企業の市場化改革を断行し、国有資本・国有企業などの資源を機能区や誘導支援産業に集中させることにより、年間平均で国有資産の5%以上の増益を実現した。街道による投資誘致の権限を取り消し、「機能区+国資プラットフォーム+社会連携」という新しい産業促進メカニズムを確立し、資本誘致の正確化・専門化・市場化を促進した。「企業サービス随心選」という中小企業に対する支援サービスシステムを作り、人的資源・融資担保・企業上場などのサービスを強化した結果、5年間で国内外の各証券市場(OTC市場を含む)に上場した区内の企業が76社あった。

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  • 文化と旅行

    徐匯区の歴史上に文人が多くて、文化が栄えています。中国文化と西洋文化の交流や発達しつつある科学技術などが当地の独特な文化を育ててきました。南宋の時に、乌泥泾というところはだんだん町になりました。明の洪武の時期に至って、市場が繁栄して、上海の南西の水陸の要衝になります。たくさんの文人や学者たちは次々とここに住み始めました。その間、趙宏毅(乌泥泾出身)はここで学校を開き、学問を教えました。元の時代に趙?は「進徳堂」を建てて、「儒学の名人を招いて諸子を教え」、 300人の学者が来ました。秦良颙、瞿忠、王迪、董其昌、趙孟頫など有名人はここで遊学しました。元代の末ごろ、王逢という詩人はここに引っ越して、「梧溪集」という著書を書きました。宋、元、明、清の石碑が区内がたくさんあります。特に明末、徐光啓は西方の科学知識を取り入れて、その上宗教文化が発展して、徐家匯あたりは次第に西方の宗教文化と中国の伝統文化と融合する接点になります。区内は古墳、古い建築、有名人の旧居、革命戦争の旧跡など、たくさんの文化財があります。その中に全国の重要文化保護財の3か所、市レベルの文化財保護のところは13か所があります。そして数多くの石刻と地方文献も保存されました。区内の文化財は歴史が長くて、価値が高いですが、豊富な内容からそれぞれの時期の本当の歴史の姿が見られます。宋慶齢の旧居上海の林森中路で(今淮海中路の1843号)、中華人民共和国の名誉主席の宋慶齢が長期にわたって居住と国務活動する場所です。本館は民国の9年(1920年)に作られて、もとはドイツの船主ボールの別荘です。宋慶齢は1948年3月に引っ越して、30年間ずっと住んでいました。ここは3階建ての花園つき別荘で、煉瓦と木構造、4333平方メートル、建築面積は700数平方メートルです。平面は長方形、外観は1隻の巨船のようです。本館内の装飾品は依然として宋慶齢の生前のように置いています。 下は客間とレストランで、奥ゆかしい部屋です。客間の北の壁の真ん中に孫中山さんの写真を掛けていて、南の壁の上に1961年に毛沢東主席が来訪する時の記念写真があります。宋慶齢はここでたくさんの国の貴賓やわが党と国の指導者と会見しました。レストランで国際友人に贈呈してくれた貴重な贈り物を陳列しています。宋慶齢は生前ふだんここで食事をしました。 上の階は寝室と事務室で、室内は質朴で優雅です。寝室に孫中山さんが使ったソファーと茶卓、宋慶齢が結婚した時に両親にもらった家具があるます。事務室の机の上に宋慶齢が生前使った文房具を置いておきます。 宋慶齢の旧居は緑の木蔭に幽かに隠れています。1988年に5月から正式に対外開放になりました。竜華の革命の烈士記念地竜華の革命の烈士記念地は上海竜華烈士の陵墓園(竜華路の2887号)の東北の隅に位置して、約1500平方メートルです。正義のために死んで遺跡区と男女の留置場との間は1本の300メートル余りの地下道につながれています。遺跡区の面積は18000平方メートルで、もと国民党淞上海の警備司令部のアーチ、内設軍法処、拷問所、男女の留置場と刑場などで構成されます。男性の留置場の壁に元の安徽省の副省長張凱帆が拘禁された時に書いた有名な詩「竜華千古仰高风,壮士身亡志未穷;墙外桃花墙里血,一般鲜艳一般红」が残されました。中国革命戦争初期の指導者趙以炎、陳延年などは皆ここで拘禁されて、最後に残酷に殺害されました。1950年に、地元の人の手がかりによって、ここで18人の完全な遺骨と何人かの身、手足の骨が不完全な遺骨が発掘されました。発見された遺骨の中に手足が手錠に掛けされたまま姿の烈士もあります。同時に烈士の遺物、いくつかの銅貨、銀貨なども掘り出しました。上海解放した後、党と政府は烈士の受難地で「竜華革命烈士就義地」という記念碑を建てました。碑の後にすでに枯死した大きい木の幹の上に60年前に烈士を敵に残酷に殺害された当時の弾痕もたくさん残しされています。南丹路17号の光啓公園にあります。1988年1月に国務院によって全国文化財保護部門になると公表されました。徐光啓(1562~1633)、上海人、礼部尚書、東閣大学士兼文渊閣大学士を歴任しました。明の崇禎14年に(1641年)徐家匯に葬りました。もとの墓地は20亩(やく130平方メートル)、合わせて10個の墓穴があります。徐光啓と夫人の呉氏、そして左右孫四人、夫妻で一緒に埋葬されました。墓の前に石碑、石像、石馬、華表、石の鳥居などがあります。石の鳥居の上の真ん中に「文武の元勲」と書いてあります。右側は「煕朝元補」、左側は「王佐儒宗」、一番真ん中は「明故太子太保赠少保太保礼部尚书兼文淵閣大学士徐文定公墓阙」などの文字があります。石の鳥居に対聯が刻んであって、前の句は「治暦明農百世師経天緯地」、下の句は「出将一個臣奮武揆文」。1978年に墓地は丹公園に建て直しました。1981年に、公園の北で楕円形の大きなお墓を作り上げます。広さ300平方メートル、高さ2.2メートル。墓碑の上で有名な数学者蘇歩青が 「明徐光啓墓」という字を書いていました。1983年に、墓の前の小路は150平方メートルの花崗岩の墓台を建て直しました。新しい徐光啓の半分胸の官服姿の花崗岩彫像を作りました。左右にヒノキと四季常緑の木を植えました。墓の東側に徐氏の筆跡の碑が並べる廊下があって、それは石の《几何原本序》、《葩経嫡証序文》などの筆跡です。碑の廊下の背の石刻は明末、清の初期に学者査継処が書いた《徐光啓伝》と現代有名な画家程十発が描いた徐光啓の肖像画です。墓の西側は一匹の石馬があります。墓の前にセメントのベンチがあって、周りにたくさんの木を植えています。徐光啓が他界した350周年を記念するため、当年の11月に南丹公園は光啓公園を改名しました。

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