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歴史と古跡

歴史と歴史様相

徐家汇の歴史は明の時代に遡られる。明の末、文淵閣大学士で有名な科学者である徐光啓はここで農園を作り、農業関係の実験をし、文章で立論し、逝去後ここに葬られた。その後一部分の子孫たちはここで生活をしてきたので、「徐家厍」という名前がつけられた。それからここは段々町になり、「肇嘉浜」と「李枞泾」と二つの川が集まる場所なので「徐家汇」と呼ばれるようになった。
清代の道光22年(1842年)、フランスのカトリック教イエズス会はアヘン戦争に乗じて上海へ布教しに来た。やがて中国とフランスが結んだ「黄浦契約」を通し、イエズス会は教会保護の権を手に入れた。そして道光27年、江南地方では「徐家汇」という水上交通が便利で代々カトリック教を深く信じる徐光啓子孫の住んでいる所でイエズス会の教会堂を建てた。その後、文で教を伝え、学問で教義を証明するイエズス会の信徒は相次いで入国して来て、教会堂を建て、書物を著作し、西洋の宗教文化を伝えた。同時に彼らは西洋に中華文化を伝え、中国と西洋の文化交流及び博物館関連事業の発展を促進した。徐家汇図書館の設立後、上海初めての教会学校――聖イグネーシアス公学(即ち徐汇公学)が創立された。そして清代の同治3年(1864年)から、孤児院と聖母院を基礎として、園芸、靴作り、編み物、彫刻、絵画、金メッキ、撮影、印刷などの工場を作った。特に「土山湾」という所は優れている工芸品と印刷工場の活字印刷技術で広く知れわたり、絵画館も中国の西洋絵画の発祥地だと思われた。同治7年、ここで上海初めての博物館――「徐家汇博物院」が創立された。同治11年、中国沿海で初めての天文台――「徐家汇天文台」が作られた。このように徐家汇地域が西洋文化輸入の窓口になり、近代国内外文化交流の中心になった。清の宣統2年(1910年)、徐家汇大教会堂の創立後、徐家汇は段々上海ないし中国でのカトリック教の中心になった。そして宗教の繁盛は近代史上、教育と文化の進歩にやや大きな影響を与えた。
 カトリック教会が徐汇公学と崇徳女子学校を創立した後、清代の光緒維新の間に、郵便部署の大臣盛宣懐がここで初めての高等学校――南洋公学(今の交通大学)を創立し、愛国者の馬相伯が震旦学院を作り、教育家の王倍孫が育材塾を元に南洋中学を創立し、映画界の名望家である張石川が幻仙映画会社を創立した。これらは徐家汇地域が文化発達で人材の大勢集まるところになるように基礎を定めた。
民国3年(1914年)、フランスの植民地主義者は第三回の拡張をし、強引にここで20本あまりの道を作り、清の政府に肇嘉浜の北にある4.5平方キロメートルの地域をフランスの租借地にさせるように強要した。これをもって徐家汇はフランスの租借地と中国の地域と共存するようになった。
租借地に電灯や電話、電車などの近代公共施設の出現につれ、地域の都市化が促進された。そこで国内外の大金持ちや高官は相次いでここで私人の庭園を作り、不動産を経営した。20世紀の始めごろの約20年間、ここは段々庭園、別荘のたくさん並んでいて広範囲の西洋マンションのある高級住宅地域になってきた。それと同時に、フランス企業の東方百代レコード会社、イギリス企業の可的牛乳会社やロシア企業のクレフット食品工場などの外資企業がその機運に応じて成立し始めた。
資本主義の市場メカニズムのすばやい前進の影響を受け、徐家汇の中方地域は1870年代に上海江南製造総局によって開設された竜華火薬工場をはじめ、近代民族工業が緩やかに発展した。そして第一次世界大戦後、民族工業がやや速く発展し、上海コンクリート株式会社や泰山レンガ工場など規模のやや大きい企業のほかに、軽工業や紡績、食品などの小型企業が発展した。その時第一代の産業労働者はこれより歴史舞台に出た。1919年5月4日の革命運動と中国共産党の誕生に影響され、民主主義、社会主義の思想はすぐ知識層や産業労働者の間に広がり、反帝反封建の革命要望と結び合い、彼らは直ちに中国共産党の強い革命力の一つになった。そして、民国14年中国共産党の徐家汇支部が作られた。党の指導の元で、徐家汇地域の進歩的な青年と産業労働者たちは反帝反封建の闘争を始めた。
民国16年3月、上海労働者の第三回クーデターは勝利を獲得して上海特別の仮政府が生まれ、北洋軍閥統治の破滅を宣言した。しかし、蒋介石は信義に背き、四•一二反革命クーデターをし、大勢の革命者を竜華で殺害した。その年の7月に、南京国民政府は上海が特別な市であることを正式に発表し、交通路(今の平江路)で市役所を設立し、警備司令部を竜華に置いた。翌年、上海は行政区を開設し始めた。区域はフランスの租借地のほか、沪南区、法華区、漕泾区に属する。民国20年、日本帝国主義は満州事件を起こし、東北三省を不法に占拠した。それに対し、蒋介石が「外国侵略を抵抗する前に国内を安定させるべきだ」という反動的な政策を取ったので、全国民衆がたいへん憤慨した。東アジア同文書院中華学生部が真っ先にストライキをした。そして中国共産党交通大学支部が教師と学生の間に日本軍国主義抵抗会を成立し、大勢の学生を集めて全市的な集会をし、請願やデモ行進を行い、市役所を包囲して国民党の党機関を壊し、市長の張群を引責辞職させた。五洲固本石鹸と薬の製造工場の社長で愛国実業家である項松茂は社員の間に日本軍国主義抵抗志願兵を組織した。民国21年、第一次上海事件が起こり、蔡廷鎧や蒋光鼐、戴戟などの愛国将領たちは竜華警備司令部で抵抗戦争を指揮した。そして宋慶齢、何香凝たちは第一戦に来て兵卒たちを慰問し、交通大学で病院を設けた。土山湾にいる馬相伯さんも『国難人民自救提議』を発表した。民衆は愛国情緒が空前の盛況になり、日本軍国主義抵抗運動が猛烈な勢いで進行していた。民国24年(1935年)12月9月に、北京の学生が行った抗日示威運動が起こり、正風中学校などの学校によって発起した上海中等学校学生救国連合会が真っ先に北京の運動に呼応した。交通大学、南洋模範中学校などにある大学生や中学生たちは奮い立ってデモ、請願に参加し、政府に内戦停止、団結抗日を要求した。それに文化界の愛国者たちは抗日を中心に左翼的な文化活動を展開した。田漢は南国芸術学院を創立し、鄭振鐸は『文学』、陳望道は『太白』、黄源は『訳文』を編集した。このように進歩的な発行物が次々に出た。
帝国主義と官僚資本主義両方の抑圧の下、民族商工業は苦境に生きること、発展のことを求めた。梅林、泰康、冠生園食品工場などの企業はかろうじて経営を維持した。大中華ゴム工場と五洲固本石鹸と薬の製造工場の愛国実業家は全工場の社員を頼り、闘争を続け、外商の中国市場壟断計画を潰した。その時、上海の不動産はもう一度発展した。フランスの建業不動産会社は今の建国西路、岳陽路の辺りに土地を買い、建物を約百棟建て、「建業里」という住宅団地を建て、中に300棟近くの建物がある。瑞華、ビカディ(今の衡山ホテル)などの新型マンションや庭園を備えた住宅も次々に建てられた。そして、蒋介石、宋子文、孔祥熙、陳果夫•陳立夫など当時四つの名家族、高官、及び杜月笙、黄金栄などの名人たちはだれもかも上海に豪華な邸宅を持っていた。
民国26年(1937年)8月13日、上海に中日間の戦争が勃発し、上海全般が陥落した。それで租借地は各地の大金持ちの「避難所」になった。中国時計製造工場、景福服装工場、中比ラジウム治療所などの企業が相次いで租借地に引越し、淮海ビル、上海新村、茂齢別荘、愉園などの高級マンションと新型団地が広範囲に建てられ、飲食店、サービス業、娯楽場もそれに相応して発展した。戦時の「孤島」は意外に繁栄な様子が現れた。それに対し、中国統治の地域は人民がひどく苦しんでいて、商工業も衰えた。斜土、徐鎮あたりと肇嘉浜沿岸に集まった貧しい罹災民たちは腹ぺこでぼろをまとう生活を送っていた。日本軍は行ったところで部屋を焼いたり人間を殺したり物を強奪したりし、あらゆる悪事をし尽くした。竜華、長橋、漕河泾などの地域だけで、焼けた個人部屋は千室に至り、百人あまりの人は殺害された。
民族存亡の一番危険な時、中国共産党江蘇省委員会に属する労働者、学生、教師、文化界などの委員会は党の末端組織を作り、抗日の団体を作り上げ、各界の人を率い、全面的な抗日活動を行った。文化界運動委員会は上海劇団を設立し、辣斐徳路(今の復興中路)に引越し、「文天祥」などの愛国時代劇を上演し、「孤島」時期の革命文化中心になった。民国28年4月、中国共産党江蘇省委員会はシエシェンス路(今の永嘉路)に引越し、党の秘密活動を展開した。民国30年3月、新四軍の上海事務所はガストン路(今の嘉善路)に設立され、抗日の根拠地に大勢の従軍青年や軍隊用の必需品を輸送した。同年の7月、中国共産党中央委員会は上海で設立された秘密の通信機を福履理路福禄村(今の建国西路384号)に移動した。
民国30年12月、太平洋戦争が起こり、日本軍は租借地を占領した。中国の民族工業はひどく潰され、多くの企業は休業に迫られた。日本軍の残虐非道な行為で、民衆は生活ができないほどに至った。民国32年7月、フランスの租借地は名義で汪精衛の偽政権に統治されたが、実は日本軍国主義の新しい植民地になってしまった。
民国34年、日本は降参し、国民政府は汪精衛の偽政権を接収管理し、警備地域の基づいて行政区を設け、常熟区(第7区)、徐家汇区(第8区)及び区の役所を設立した。しかし、国民党の「一切は内戦に服従する」という反動的な統治の下、教育経費が大量に削減され、進歩的な出版物が厳しく取り締まられ、愛国民主者たちが処刑され、商工業が休業や倒産に迫られた。大勢の労働者が失業し、物価が高騰したので、民衆の生活は再び「地獄」に落ちた。生存を勝ち取るため、美亜絹織物第九工場、竜華コンクリート工場、竜華兵器工場、交通大学、上海医学院などにいる労働者や民衆、教師、学生たちは中国共産党の指導の下で「飢えを反対、内戦を反対、迫害を反対」という運動を続けて展開したり、アメリカが日本を支持する行動を反対するため一連の抗議闘争したりして全国の解放戦争を協力した。民国38年の春、上海解放を迎えるため、人民警備隊を作り、工場や学校などを守る闘争を展開した。交通大学の学生である穆漢祥、史霄雯は学校守りの闘争で殺害された。同年の5月24日、人民解放軍は中国共産党の地下組織の協力で上海を解放した。
解放当時の常熟、徐汇は面積が13平方メートルで、人口が28万だった。そして約500の中小工場があり、中小型の商店が3000軒で、単独経営の手工業が1800戸であった。それに大学は八つあり、中小学校が127で、科学研究所(室)が13あり、映画館や劇場が三つあった。
上海が解放した後、新しい人民政権は先ず力を集め、秩序を正しくして社会の安定を維持した。官僚資本を没収し、国営経済を作り、私営商工業を手伝い、生産を回復させて発展を促進し、物価を安定させた。それから、アメリカに抗し、北朝鮮を援助した。反革命の人間や行動を鎮圧し、ばくちや毒物、売春を禁じ、「三つの反対」、「五つの反対」などの運動を行った。それに、企業に民主改革を広く実施した。三年間の努力のおかげで、社会秩序が段々安定になり、国民経済も回復して発展した。
1953年、社会主義の改造を行い、国民経済の初めての五年間計画を実行した。
1954年7月、民主選挙で、常熟、徐汇は別々に第一期人民代表大会第一回会議を開いた。そして民主協議を通し、区の政協は第一期委員会第一回会議を開いた。カトリック教に隠れる反革命活動を厳しく鎮圧するのに基づき、教会は教徒たちを団結し、「反帝国主義、愛国、独立自主、自主経営」という道を歩むようになった。そしてキリスト教教徒の中に反帝愛国の「三自(自治、自活、自らで布教する)」という革新活動を展開した。社会主義政権の建設、強力に生産を発展すること及び供給を保障することの同時に、政府は人民の生活を改善するため、一連の措置をした。その間に、肇嘉浜で浜を埋めて道路工事を行い、「水上のバラック地帯」にいる2000戸あまりで、8000人以上の住民たちを新しい住居に移住させた。それに、「日輝一村」、「漕渓一村」などの労働者たちが住む団地を次々に建てた。1956年の正月に至って、社会主義の改造が大きな高まりに入った。全部で工場が1126もあり、2996戸の私営商店が公私共同で経営するようになり、955戸の手工業者が91の協同組合を作った。同年の3月、常熟、徐汇が合併して徐汇区になった。
1956年から、中国共産党上海市党委員会の定めた「十分に利用し、合理的に発展させる」という方針によって、政府は以前からある工業企業の構成を変更し、国が急に必要なメーター、電子、機械、宇宙飛行などの新興工業企業を新しく建設した。それと同時に、工場や企業に増産節約と技術革新を内容としての社会主義労働コンテストを行い、生産能力と製品の品質を明らかに向上させた。1956年、工業の生産高は5.63億に達し、1952年の2.63億より2.1倍成長した。そして中国共産党上海市党委員会は労働者の家族を集めて生産に参加することを呼びかけ、団地生産グループという形式で町工業を創立し始めた。科学、教育、文化、医療、体育などに関連する組織の転入或いは新しく建設、拡大につれ、区の教育、文化事業、商業、サービス業などもそれ相応に発展した。
1957年の後半年から、間違った左傾思想のせいで、区地域では右派と判断された人は700人あまりに達した。1958年の「大躍進」などの運動に、「大げさに言うやり方」、「す全てを共同所有とするやりかた」もある程度に現れた。そして1959年「右傾を反対する」という闘争に、また大勢の幹部がわけもなく批判された。区の政治、経済、生活はひどい損害を受け、大勢の幹部や民衆は社会主義の意欲が傷つけられた。国民経済の割合はバランスが崩れ、市場供給の緊張を導き、民衆の生活が苦しくなった。1961年から、中国共産党中央委員会の「調整、強固、充実、向上」の方針を執行し、ある程度に誤りを正し、間違って批判や処罰をされた幹部を名誉回復した。厳重な困難に打ち勝つため、区政府は一万人あまりの人員を削減した。それで1963年、経済が好調になり始め、工業生産もやや大幅に向上し、民衆の生活が段々普通の水準になった。1964年、全市では工業指導者の構成が調整され、区内の国営企業と公私共同経営の企業が市工業局と関連機関に管理されるようになった。
1966年全国的な「文化大革命」が突然起こった。中国共産党上海市党委員会の所在地である徐家汇は最もひどい「被災地域」になってしまった。「康平路変乱」は実は1967年の「一月騒動」の前触れで、被害は全国に及ぼした。区内では「裏切り者」、「スパイ」、「反革命者」、「死んでも変わらない資本主義の信者」と批判された幹部と民衆は6200人あまりに達し、変死になった人は400人以上になった。他に、巻き添えを食って家が壊され、批判或いは強制労働の処罰を受けた人間は無数にいった。竜華寺の仏像、経典や徐家汇のカトリック教教会堂の鐘つき堂などの珍しい文化財、図書、芸術的な建築が壊され、焼かれ、或いはごみとして捨てられた。工場や企業は生産を続けることが難しく、学校や科学研究院は一切停止になった。1976年10月、「文化大革命」がとうとう終わった。この10年間にわたる変乱の間、徐汇の民衆は厳しい災害による試練に耐えられた。
江青の反革命団体を潰した後、特に1978年の中国共産党第11期第3回会議の後、全面的に乱世を治め、正しい世に返すように努力した。区は仕事の中心を経済に移し、政治安定、社会安全、経済回復、生活水準向上の喜ばしい様子が現れた。
1981年から、上海市が改革開放の新しい時期に入ることに応じ、徐汇区の党委員会、政府は権力を企業へ分散して利益をもっと企業に与え、政策を作って企業を手伝い、区内の経済を発展させるためにいろいろな新しい方法を取った。1983年、区の財政収入は初めて一億元を突破した。1984年、竜華と漕河泾という二つの町及び長橋、田林などの地域は上海県から徐汇区に繰り入れたので、徐汇区の所轄面積が倍になった。その年、市役所は漕河泾で新しいマイクロエレクトロニクス工業地を建てることを決めた。何年間の努力の後、1988年6月に、国務院の許可をうけ、もとの工業地を拡大して上海漕河泾技術開発区を建てることになった。区政府はこのチャンスを掴み、不動産、商業、観光事業、金融業を中心にして第三産業を発展させる政策を作った。そして、集団工業に対し、技術改造、産業構造の調整、製品品質の向上及び規模利益をポイントに指導した。
1988年、市は区に「収支の数字を決め、毎月現金若干を支給、収入増加の部分を分け取り、五年間に政策を安定させる」という財政管理制度を実施した。この措置に巡り、区内の末端組織に請負制を実施、企業や職員の生産意欲を高めた。三年間後、区の全体的な経済力が明らかに向上した。1990年は1980年に比べ、財政収入は2.61倍増加し、3.34億元に達した。それに財政支出は4.9倍上がり、1.34億元であった。区に属する工業の産出総額は4.55億元に達し、その中に集団事業管理局に所属した企業の産出総額は2.45億元であり、1980年の4495万元より4.47倍増加し、外貨が217万ドルになった。それは教育事業、都市管理、食品供給などの支出を保障した。同時に、地下鉄一番線、漕渓北路の立体交差橋、中山西路高架線などの上海市重点工事が行われ、53本の道路が広く改築され、或いは新しく作られた。そして12万平方メートルの路地が修理された。国、地方政府、及び企業の共同出資で住宅を建てるという方針に基づき、古い団地を改造し、新しい住宅を建てるようになった。1977年から1990年までの14年間、七つの団地、47所の一般住民の住宅地、67棟の高層マンション及び他の建物などが新築され、建築面積が合計で377.74万平方メートルになった。これは解放前の28年間建築面積の153.34万平方メートルより2.46倍ほどになった。そして40あまりの所にあるバラック、ぼろぼろな部屋も改築された。一人当たりに3平方メートル以下の家庭がなくなり、一人当たりの住宅面積は7.3平方メートルになった。住民の年間消費は1980年の623元から1990年の2128元になり、年間に5.5%上がった。
区内の科学、教育、病院、体育事業も明らかに発展した。1990年、民営の科学技術施設が81軒に達し、新築の中、小学校や幼稚園が29で、学校の実験設備、体育施設、医療施設がいずれも上海市の定められた基準に達した。そして新築、改築された病院は7軒あり、病院のベッドを600個加え、区に所属する病院と町の病院も医療設備を更新した。それに区の科学技術館、図書館などの施設が新しく建てられた。
1991年以来、中国共産党第14期会議の精神と鄧小平さんが南部を視察した時の談話に励まし、徐家汇区は改革開放のスピードを速め、区内の経済が続けて速く発展し、町もずいぶん変わり、それぞれの社会事業も新しい発展を取った。1995年、区のGDPは22.84億元になり、1992年の7.97億元より1.86倍増加した。財政収入は10.67億元で、1990年の3.34億元より2.19倍上がった。区に所属した工業総生産額は33.69億元で、1990年の4.55億元より6.4倍上がった。徐家汇ショッピングセンター第一期の工事が終わり、地下鉄などの交通機関が建設され、徐家汇広場を中心に町の全体がずいぶん変わった。商業地の面積が10倍拡大し、区属の商業営業金額は1990年の17.59億元から94.92億元に達した。徐家汇区の区属工業や商業は上海市中心区域ではそれぞれ第一位と第三位になった。そして、民営科学企業も速いスピードで発展し、その規模と利益は上海市の第一位になった。316軒の外資企業が政府から許可をもらって創立され、10.34億ドルの外資を集めた。内地と連合して作った企業は922軒あり、他省から8.44億元の投資を集めた。1995年、住宅工事完成の面積は133.2万平方メートルで、1990年より1.3倍増加した。賃借りの土地は38かたまりで、合計34.01ヘクタール、賃借りの収入は8.61億ドルになり、古い地域改造のスピードをずいぶん速めた。そして五年間に改造された古い地域は65.16ヘクタールに達し、2.4万戸の住民たちはぼろぼろの小屋から設備万全の新住宅に引っ越した。日輝港は全面的な改造を受け、新築された日輝東路は南北を通り抜けた。黄浦江に跨っている徐浦橋は立派な姿を現し始めた。そして、教育経費が明らかに増加し、累計で5億元近くが投入され、12の中学校が新築された。周囲の環境もだんだんよくなり、国家衛生地域の審査に徐汇区はいい成績を取り、「上海市国家衛生地域」と評判された。そして「徐汇区でいい生活をする」という活動をきっかけに、社会主義精神文明の建設もしっかりと展開されていた。
徐汇区の百年あまりの歴史と発展を顧み、代々の名人が中国と西洋文化を結びついていいことを吸い取ったおかげだけではなく、無数の烈士は死を恐れないで帝国主義、封建主義、官僚資本主義を潰したおかげだ。中国共産党の指導のもとで、新しく誕生した人民政権は区内の人たちを連れて苦難の歴史に別れを告げ、社会主義近代化建設の新時期を迎え、科学技術先進で教育発達で人材豊かな区になった。改革開放以来、物質文明と精神文明の建設が続けて速く発展し、特に科学技術産業の発展が先頭に立ち、中産生活の目標を実現するように基礎を固めた。そして、何年間の努力のおかげで、区がずいぶんかわり、偉大な成果を取った。今まで、シンボルとしての徐家汇ショッピングセンターと広場、漕河泾新技術開発区、民営企業群、竜華観光地と愛国主義教育基地は輝かしい光を放っている。そして、空から地下に至る立体的な交通機関、建築中の新しい上海図書館、徐浦橋、収容量八万人の体育館など、近代化的で立派な建物も区に点在している。
徐汇区は経済建設に力を入れると同時に文化財の保護も大事にした。庭園つきの住宅は徐汇区では最も特徴のあるもので、上海市発展の歴史にとって大事な文化財と構成部分だ。
衡山路歴史様相保護区は南が広元路、建国西路に至り、東が岳陽路、襄陽路まで、北が延安西路(徐汇区には長楽路まで)に至り、西が華山路で、面積が366ヘクタール(徐汇区には約300ヘクタール)だ。この保護区はもともとフランス租借地のA型住宅団地で、庭園つきの住宅の最も多いところで、2500棟あまり(徐汇区には2000棟あまり)がある。そして庭園つきの住宅は建築品質がよく、デザインが多様で、建築の密度が低く、緑も多く、静かな高級住宅地域だ。保護区の中に、宋慶齢の故居及び蔡元培の故居は上海市文化財になり、新康花園、修道院マンションなどの11所は上海市優秀な近代建築文化財保護地になり、他の49所の建築も上海市優秀な近代建築保護地になった。中に、陳毅故居、黄興故居、ライラック花園、宋子文故居、杜月笙の住宅、蒋介石と宋美齢の住宅、盛宣懐の住宅、張元済故居がある。
庭園つきの住宅は欧米住宅、別荘、官邸の建築法と芸術手法を吸い取り、スペイン、イギリス、フランス、ノルウェー、ドイツなどの国の伝統を帯び、或いはアメリカ植民地の色彩を持ち、西洋現代の建築様式が溢れ、時代と地域の特徴をはっきりと持っている。
竜華の歴史様相保護区は東が竜華路に至り、南が鉄道まで、西が天鑰橋路で、北が宛南新村に至る。面積は43ヘクタールだ。保護区にある竜華革命犠牲者の遭難地はもう国家重点文化財になり、竜華タワー、竜華寺はもう市の文化財になった。
保護区に、元の竜華公園を土台に、上海市革命犠牲者の陵墓園林を作った。もとの淞沪警備司令部の建物と犠牲者の遭難地も陵墓園林にある。そして、陵墓園林は犠牲者たちを供養して学生に革命思想を教育する重要な基地になった。それに政府は竜華寺と竜華タワーをしっかりと保護し、適当にサービス施設を作り、仏教、民間風習、観光の基地にさせた。竜華古鎮は改造後、江南古鎮の様相と地方の雰囲気を保ち、竜華寺、竜華タワーと調和がよく取れている。そして今の竜華観光は黒い瓦と白い壁を特徴とする江南風の住居が見られるだけではなく、タワーを囲む廊下や橋も見られる。住居は寺、タワーと面白いコントラストをなし、いい観光地になった。