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観光地案内

徐光啓の墓/記念館

ファーストビュー
住所:南丹路17号光啓公園園内
連絡先:021-64689252
入場料:無料
(2010.01.09確認済み)
観光に適する時季:毎日開放
光啓公園:5:00-18:00
徐光啓の墓:9:00-16:00

概要

徐光啓は明代末のカトリックの教徒。天文学者・農学者。中国と西洋の文化交流の先駆者。字(あざな)は子先、号は元扈といい、上海出身。



明代万暦24年(西暦1596年)に広東韶州で西洋の宣教師と知り合い、初めてカトリック教の教義と西洋の科学知識を知った。後に、西洋宣教師Matteo Ricci‎(中国名、利瑪竇)の著した『山海と地図』を読んだ。翌年に科挙の郷試に受かり、会試を受験するために北京へ赴いた。南京を経由したとき、Matteo Ricciを訪問し、西洋の科学知識に興味をもった。
万暦31年(西暦1603年)に南京でポルトガルのイエス会の宣教師Jean de ROCHA(中国名、羅如望)の布教の説明を聞き、また、Matteo Ricci‎の書いた『天学実義』を読んだ。彼は「天学(カトリック教)」を「行の上にある道」と「行の下にある器」と二分した。仏教に対して、「中国に渡来して千年も経ったが、人の心はいまだに変わらない」と批判した。一方、カトリック教を布教すれば、世の人が善を求め、世の中が安定するとカトリック教を大いに賞賛した。後に、彼は洗礼を受け、カトリック教の信者となり、「保禄」という洗礼名をとった。
万暦32年(西暦1604年)に進士となり、翰林院の庶吉士に選ばれた。政治に携わるかたわら、Matteo Ricciに西洋の学問を学び、Matteo Ricciと一緒にユークリッド著の『幾何学原本』の6巻までを漢訳した。


万暦35年(西暦1607年)に親の喪に服するために、故郷に戻った。翌年、イタリアのイエス会宣教師のLfizaro Catfino(中国名、郭居静)を招き、上海で宣教した。徐光啓自身は家に教会を設立し、親類、友人、小作人の間から教徒を受け入れた。これにより、カトリック教は初めて上海まで広められた。
喪に服する間、西洋の『測量法儀』に中国の『周髀算経』『九章算術』を加え、中国の数学を西洋の数学と結びつけ、『測量異同』『勾股義』を著した。3年後、翰林院に戻った。ちょうどその時、日食の計算に誤りがあった。それで宣教師と合作して、天文機器の研究を始めた。
徐光啓は西洋の本を翻訳し、西洋の天文学を勉強することを唱えたものの、皇帝に受け入れられなかった。万暦40年(西暦1612年)に、イタリアイエス会の宣教師Sabbatini de Urisis(中国名、熊三拔)に師事し、西洋の水利技術を学んだ。
崇禎元年(西暦1628年)に礼部侍郎の職に復帰した。翌年、天文部門の日食の予測に再び誤りがあったので、皇帝から暦法の改修を命じられた。同年、皇太極が数万人の大軍を率いて、山海の関を突破し、北京へ進軍していた。
崇禎帝は二度大臣を召集し、敵に抵抗する方法を尋ねた。徐光啓は捕虜を優遇することによって、敵の士気を崩す。そして、西洋の銃・大砲などの火器を頼りに防御戦術を取ることを提案した。


 

徐光啓の指揮のもとで、宣教師が率いるポルトガルの兵士が銃をもって、涿州へ赴き、防衛に加わった。崇禎3年(西暦1630年)、礼部尚書に昇進した。
徐光啓は明代末の中国と西洋との文化交流における重要な人物であり、同時に有名な科学者でもある。彼の著した『農政全書』は中国の科学技術史において画期的な大作であった。1633年、徐光啓は北京で亡くなった。後に、当時法華浜と肇嘉浜(二つとも川の名前)の合流するところに埋葬された。氏の子孫も多くここに住んでいるため、「徐家匯」という名がついた。

「徐光啓の墓」は南丹路の光啓公園の中に位置し、1957年の修築を経、現在は花崗岩で作られた彫刻がある。東側は回廊で、徐光啓の画像、筆跡、伝記などの石の彫刻が12点展示されている。周りは緑に包まれ、物静かで厳かなところである。

「徐光啓記念館」も光啓公園の中に位置している。記念館の建物は必死の補修でやっと保存された、他の場所から移された今まで500年以上経った上海の古い民宅「南春華堂」であった。
記念館には、徐光啓の筆跡にもとづいて刻んだ碑文が11点保存されている。展示されている明代の家具は徐光啓旧居の家具の配置を示している。窓枠はすべてシンプルな格子窓である。
記念館には、コンピューターの3D技術とマイクロ技術を利用して復元した徐光啓の旧居のマイクロ模型が見られる。記念館は、徐光啓の生涯、科学における成果、歴史的影響、郷里に対する感情、墓地の変遷および後世の評価を紹介している。